岡畑農園創業一代記|紀州梅干の革命児 岡畑精一物語

精一が自分で作った梅の加工・販売事業を立ち上げたのは26歳の時である。家族を支えるためにも毎月安定した収入を得たいと考え、姉や弟の助けを借りながらのスタートであった。

精一は梅作り、梅干作りに取り組みながら「こうしたらもっといい梅ができるのでは?」「こうしたら効率的に作業が進むのでは?」という好奇心を胸に次々と新しい試みを実行していった。

例えば収穫の際には、漁師から分けてもらった網を畑に敷いてみた。これは、木で完熟させて自然落下まで待つ紀州梅が、直接地面に落ちて傷が付くのを見てどうにかできないものかと考えた末に生まれたアイデアだった。

結果的には、網がクッションとなり梅に付く傷が激減、さらに梅の実を拾う作業も以前は雑草が邪魔をして手間がかかっていたのが改善され、作業効率がグンと上がった。これまで10人でやっていた収穫の作業が4・5人でできるようになったのである。


昔の外での天日干し風景

現在のハウスでの天日干し

また、梅のハウスでの天日干しも精一のひらめきである。ハウスの中で野菜を作っているのを見てピンと来た精一は、天日干ししている梅もハウスの中で干せないものかと考えたのである。ハウスなら天候を気にすることなく、山の中でも3〜10月の間は夏と同じような気温に保てる。さらに朝倉庫から出して夕方に干した梅を倉庫へ戻す手間も省け、作業の合理化につながる。

しかし始めてはみたものの「岡畑農園の梅はハウスで干してるからあかん」と散々叩かれる毎日。時にくじけそうになりながらも精一は思った。「こういった言葉に負けたら何も新しいことができない。改革ができない」

逆風の中、不屈の精神で自分のやり方をやり通した精一は当時の厳しい状況を振り返る。「新しいことをすればまずは否定される。それでも私は自分のやり方を貫き、今日までやってきました。たとえ『変わり者』と言われ続けても自分の信じたやり方を変えませんでした。きっといつかみんなも私の考えを理解してくれる。それを信じてやるしかないと頑張りました」

現在では、網を使った収穫もハウスでの天日干しも「当たり前のこと」として梅農家に広まっている。変わり者からパイオニアへ。それは精一自身が認められた瞬間でもあった。

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