岡畑農園創業一代記|紀州梅干の革命児 岡畑精一物語

完熟梅。樹上で完熟するまで待ってから収穫。

梅干の選別作業。今も手作業で行う

昔の作業風景

健康ブームのさなか、今では当たり前となっている低塩梅干だが、当時は塩辛く酸っぱいものが主流。精一も伝統的な白干し(漬け込み干したままの梅干)と、しそ漬け梅干を作っていたが売れ行きは今ひとつだった。

そんな時転機になったのが、ある問屋からの一言だった。「どうせ売れないのだったら、低塩梅干を一回作ってみたら」。この言葉をきっかけに本格的に低塩梅干作りに取り組み始めた精一だったが、大きな壁にぶち当たる。

本来梅干は塩分により品質が保たれてカビも生えない。しかし塩分を抑えると、最も大切な品質管理の面でどうしても問題が起きてしまう。「一体どうしたらいいんだ」と頭を抱え、眠れぬ日々が続く。

そんなある日、偶然ある大手食品メーカーの人と知り合う機会があった。精一が低塩梅干作りの悩みや疑問点をぶつけてみたところ、その会社の研究員が泊まりこみで指導に来てくれることに。この日から、研究員との二人三脚の日々が始まった。

不眠不休で試行錯誤を繰り返し、品質管理や調味液の配合などを研究。そして遂に塩分20%前後の梅干が当たり前の時代に、低塩梅干「うまい梅」(当時は塩分8%)が完成、そして「うまい梅」よりさらに低塩の「幻の梅」(塩分5%)の開発にも成功したのである。


低塩梅干の傑作「うまい梅」。当時の塩分は8%。現在は7%。

今や岡畑農園の2大看板に成長した「うまい梅」と「幻の梅」だが、販売当初はなかなか相手にされなかった。「塩分15%以下のものは梅干じゃない」と同業他社にも叩かれる有様だった。

しかしこの頃から健康ブームの追い風が吹いてくる。低塩梅干は徐々に多くの女性や健康志向の人々から支持を受けるようになり、関東地方を中心にどんどん売れるようになっていった。そこには「自分が食べて美味しいと思うものを作りたい」「安全で安心して食べられるものを提供したい」という精一の熱い思いが凝縮されているのであった。

加工業は苦労の連続。新製品の開発で苦しむ彼を見て
私も眠れぬ日々を過ごしていたのです。
(岡畑康栄)

結婚した時には既に加工業も手がけていたのですが、加工業は分からないことばかりで苦労の連続でした。設備投資もしなくてはなりませんし、原料も調達しなければなりません。当然まとまったお金が必要になってきます。貯金は底をついていたので、地元の農協から借りられるだけ借りて何とか操業していました。

厳しい日々の中で支えとなったのは彼の夢でした。彼はよく言っていました。「今後梅の収穫量はますます増えていくだろう。その時に栽培農家が換金に困らないようにしてあげたい。そして紀州の梅干を全国に広めることで地場産業の発展にも貢献したい」と。

昭和49年頃に、爆発的に「かつお梅」が売れ出したこともあり、岡畑農園でもこれまでとは違う商品の開発に取り組むことになります。当時の主流だった塩辛く酸っぱい梅干ではなく低塩の梅干作りをスタートさせたのです。

現在の主力商品である「うまい梅」ができるまでに、夫はどれほど眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。カビの問題はもちろん、品質を安定させるためにどれほど苦労したことか。私にははかり知れぬ苦しみがあったことでしょう。

しかし私も一人悩んでいました。経理一切を任され簡単な帳簿だけをつけている間はよかったのですが、銀行と取引ができるようになると試算表や資金繰表の提示を求められるようになってきたのです。経理や簿記の専門知識もなく商売には全くの素人であった私の手に負える問題ではありませんでした。税理士さんを雇う余裕もなく四人の子ども達の子育てにも追われる日々の中で、私自身も眠れぬ夜を過ごしていたのです。

そんなある日、新聞の折込チラシがきっかけで簿記の通信教育を始めることにしました。仕事と子育ての合間の少ない時間をやりくりしながら必死で勉強しました。地元の商店で経理をしていた妹も時々教えに来てくれ、3年という月日がかかりましたが何とか通信教育の全過程を終了。こうして岡畑農園の財務会計の基礎を作ることができたのです。

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