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岡畑農園 創業一代記
昭和17年、紀州田辺の上芳養に農家の長男として生まれた岡畑精一。中学2年生の時に父が急逝し、家族を支えるため、勉学と畑作業に没頭する日々の中、生涯の恩師に出会う。
26歳で梅の加工・販売事業を立ち上げた精一は次々と新しい試みを実行していく。吹き荒れる逆風の中、不屈の精神で自分のやり方を貫いた精一が業界に起こした革命とは?
一家の大黒柱として遊ぶことも知らず働きづめだった精一は、昭和44年9月、妻・康榮と結婚した。そんな2人が最初に行った場所は、精一が全てを捧げていた「梅畑」だった。
当時、精一が作っていた白干梅としそ梅の売れ行きは今ひとつ。問屋の「どうせ売れないのだったら、低塩梅干を一回作ってみたら」の言葉に一念発起するも、大きな壁にぶち当たる。
精一が低塩梅干の開発のために不眠不休の日々を続けていた陰で、妻・康榮(やすえ)も眠れぬ日々を過ごしながら、必死で家族と会社を支えていた。
同業他社が合成保存料や化学調味料などをどんどん使うようになる中、精一は、本当の紀州梅の美味しさを味わってもらうため、体と環境に優しい梅干作りを実践し続けた。
第一章
~恩師との出会い~
第二章
~「変わり者」と言われても~
第三章
~初デート梅園へ~
第四章
~自分が食べて美味しいと思うものを~
第五章
~妻 岡畑康榮の眠れぬ日々~
第六章
~体と環境に優しい梅干作りを実践~
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第一章:少年時代 ~恩師との出会い~
第一章:少年時代 ~恩師との出会い~
岡畑精一は昭和17年、紀州田辺の上芳養(かみはや)に農家の長男として生まれた。将来は漠然と農業を継がなければならないだろうと考えていたが、その時は意外にも早くやって来た。中学2年生になった時、父が病気のため急逝したのである。
子どもの頃から責任感が人一倍強かった精一は、農家の長男として一家を支えていくことを決意。「これからは長男として姉弟を守っていかないといけない。でもとりあえず、高校だけは行かしてもらおう」と考え、地元高校の農業科に進学したのだった。
当時は、今のような農機具もなく、農業も牛の力を借りていたので牛の世話も必要になってくる。毎日朝から牛の餌用に草を刈り、牛の世話をしてから学校へ。学校では必死になって勉強し、授業が終わればすぐに家に帰り畑作業に没頭する日々。
遊ぶ暇など全くない必死な毎日の中で、精一はある一人の教師と出会う。竹中勝太郎(たけなか かつたろう)。今や梅の有名ブランド「南高梅(なんこううめ)」の名付け親としても知られる人物である。精一は「現在の岡畑農園の梅作りは竹中先生との出会いから始まったと言っても過言ではない」と竹中を信頼してやまなかった。その信頼感はこんなエピソードからも伺える。
ある日、精一は竹中に教えられた通りに梅の木の剪定をしていた。それを見た近所の農家の人たちは口々に「そんなに枝を切っては梅の実がならない」と言った。木の剪定は良い実をつけるかどうかを左右する大事な作業である。親切心から出た忠告であると分かってはいたが、精一は信頼する竹中の教えを信じ、教えられた通りに剪定を続けた。
その結果、収穫時期には梅の実がならないどころか、大きくふっくらとした梅の実がたくさんなったのである。竹中を信じ、人に何と言われても自分の信念を貫いた精一。わずか14歳の若さで一家の大黒柱として家族を支えなければならなかったこの強い精神力こそが、この後の岡畑農園の発展を支える礎となるのであった。
『南高梅』の名付け親
恩師 竹中勝太郎 先生
昭和25年から5年にわたり、和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)では、栽培する梅を優良品種に統一して市場の安定を図るため、品種の選抜調査が行われた。
園芸科の教師として教鞭をとりながら、地質風土に最も適合した梅の研究を続けていた竹中先生を中心に、南部高校の生徒達も地道な調査に協力し、最優良品種として「高田梅」を選定したのだった。
昭和40年の種苗名称登録の際、竹中先生は「南部高校(通称:なんこう)」と「高田梅」の名を取り、この梅を新たに『南高』と命名。今現在、国内第1位の栽培面積を誇り、大粒で柔らかな果肉で梅干のトップブランドとして全国に知られる存在となったのである。
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第二章:新しいことへの挑戦 ~「変わり者」と言われても~
第二章:新しいことへの挑戦 ~「変わり者」と言われても~
精一が自分で作った梅の加工・販売事業を立ち上げたのは26歳の時である。家族を支えるためにも毎月安定した収入を得たいと考え、姉や弟の助けを借りながらのスタートであった。
精一は梅作り、梅干作りに取り組みながら「こうしたらもっといい梅ができるのでは?」「こうしたら効率的に作業がすすむのでは?」という好奇心を胸に次々と新しい試みを実行していった。
例えば収穫の際には、漁師から分けてもらった網を畑に敷いてみた。これは、木で完熟させて自然落下した梅が、地面に直接落ちて傷付いてしまうのを見て、どうにかできないものかと考えた末に生まれたアイデアだった。
結果的には、網がクッションとなり梅に付く傷が激減。更に梅の実を拾う作業も、以前は雑草が邪魔をして手間がかかっていたのが改善され、作業効率がグンと上がった。これまで10人でやっていた収穫の作業が4・5人でできるようになったのである。
また、ハウス内での天日干しも精一のひらめきである。ハウスの中で野菜を作っているのを見てピンと来た精一は、梅の天日干しもハウスの中でできないものか?と考えたのである。ハウスなら天候を気にすることなく、山の中でも3~10月の間は夏と同じような気温に保てる。さらに、干した梅を夕方に倉庫に入れ、翌朝、倉庫から出して再び並べる手間も省け、作業の合理化につながる。
しかし始めてはみたものの「岡畑の梅はハウスで干してるからアカン」と散々叩かれる毎日。時にくじけそうになりながらも精一は思った。「こういった言葉に負けたら何も新しいことができない。改革ができない!」
逆風の中、不屈の精神で自分のやり方をやり通した精一は、当時の厳しい状況を振り返る。「新しいことをすればまずは否定される。それでも私は自分のやり方を貫き、今日までやってきました。たとえ『変わり者』と言われ続けても、自分の信じたやり方を変えませんでした。きっといつかみんなも私の考えを理解してくれる。それを信じてやるしかないと頑張りました」
現在では、網を使った収穫も、ハウス内での天日干しも「当たり前のこと」として梅農家に広まっている。変わり者からパイオニアへ。それは岡畑自身が認められた瞬間でもあった。
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第三章:妻との出会い ~初デート梅園へ~
第三章:妻との出会い ~初デート梅園へ~
精一が結婚したのは昭和44年のことである。
妻・康栄(やすえ)とはお見合いだった。これまで一家の大黒柱として遊ぶことも知らず働きづめだった精一は「自分の妻となる人にはきちんと自分の仕事を見てほしい」との思いで、康栄を初デートで梅園に連れて行ったのであった。
初めて会ったときに「この人と結婚するかもしれない」と思いました。
彼の夢を自分も一緒に追いかけようと決意したのです。(岡畑康栄)
「仕事ひと筋のとってもまじめな人なんやけど、会ってみてくれない?」
友人にそう言われてお見合いをしました。その時私は21歳になったばかりで、結婚をする気なんて全然なかったのです。高校を卒業して大阪でOLをしていたのですが、20歳になった途端に、両親からの「早く帰って来て花嫁修業をするように」という矢のような催促に負け、泣く泣く帰って来たばかりでした。ですから、最初から断るつもりの軽い気持ちでお見合いをしました。
ところが初めて彼に会ったとき「私はこの人と結婚するかもしれない」と思ったのです。両親に「精一さんと結婚を前提に付き合いたい」と伝えたのですが、あれほど早く嫁がせようとしていた両親は猛反対。「お前に農家の嫁が努まるはずがない」と言うのです。
しかし、若くて世間知らずの私は「これは私の問題で、私の人生やから、私の好きなようにさせてほしい」と言いました。
そして自分でどんどん話を進めてお付き合いをするようになりました。今思えばかなり積極的だったと思います(笑)。
一番最初に二人で行った所は梅畑。
梅の花が散って新芽が出始めた広い畑の中を歩きながら、梅のことを彼は一生懸命説明してくれたのですが、当時の私はあまりにも無知で、何を言われてもチンプンカンプンでした。
でも、ただひとつ、今でも心に残っていることがあります。それは「梅はどれだけたくさんの花が咲いても自分の花だけで受粉する確率が低いんや。満開になって4~5日暖かい日が続いてミツバチが活動してくれたら、他の花の花粉をもらって受粉して、やっと結実する事ができるんや。でも梅の花の咲く頃は、まだ寒い日が多いからなぁ。他の果樹に比べたら実を付けるための条件は厳しいなぁ」という話です。
私はそれを聞いて、梅はなんとけなげなのだろうと思いました。いつ寒波がやってきて花が全部ダメになってしまうかもしれないのに、一月の末頃から開花し、二月半ばには寒さに耐えながらも満開の花を咲かせる梅。
彼が「自分の夢を実現するには一人では限度があるけど、二人なら二倍じゃなくて三倍にも四倍にもできると思う」と言うのを聞いて、「私も梅の木のようにけなげにがんばろう」と固い決心をして、結婚しました。
昭和44年の9月のことでした。
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第四章:低塩梅干の開発に成功 ~自分が食べて美味しいと思うものを~
第四章:低塩梅干の開発に成功 ~自分が食べて美味しいと思うものを~
健康ブームのさなか、今では当たり前となっている低塩梅干だが、当時は塩辛く酸っぱいものが主流。精一も伝統的な白干し(漬け込み干したままの梅干)と、しそ漬け梅干を作っていたが売れ行きは今ひとつだった。
そんな時転機になったのが、ある問屋からの一言だった。「どうせ売れないのだったら、低塩梅干を一回作ってみたら」。この言葉をきっかけに本格的に低塩梅干作りに取り組み始めた精一だったが、大きな壁にぶち当たる。
本来梅干は塩分により品質が保たれてカビも生えない。しかし塩分を抑えると、最も大切な品質管理の面でどうしても問題が起きてしまう。「一体どうしたらいいんだ」と頭を抱え、眠れぬ日々が続く。
そんなある日、偶然ある大手食品メーカーの人と知り合う機会があった。精一が低塩梅干作りの悩みや疑問点をぶつけてみたところ、その会社の研究員が泊まりこみで指導に来てくれることに。この日から、研究員との二人三脚の日々が始まった。
不眠不休で試行錯誤を繰り返し、品質管理や調味液の配合などを研究。そして遂に塩分20%前後の梅干が当たり前の時代に、低塩梅干「うまい梅」(昭和53年当時は塩分8%)が完成、そして昭和58年に「うまい梅」よりさらに低塩の「幻の梅」(塩分5%)の開発にも成功したのである。
今や岡畑農園の2大看板に成長した「うまい梅」と「幻の梅」だが、販売当初はなかなか相手にされなかった。「塩分15%以下のものは梅干じゃない」と同業他社にも叩かれる有様だった。
しかしこの頃から健康ブームの追い風が吹いてくる。低塩梅干は徐々に多くの女性や健康志向の人々から支持を受けるようになり、関東地方を中心にどんどん売れるようになっていった。そこには「自分が食べて美味しいと思うものを作りたい」「安全で安心して食べられるものを提供したい」という精一の熱い思いが凝縮されているのであった。
岡畑農園の沿革を見る
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第五章:成功の裏側で ~妻 岡畑康榮の眠れぬ日々~
第五章:成功の裏側で ~妻 岡畑康榮の眠れぬ日々~
精一が低塩梅干の開発のために不眠不休の日々を続けていた陰で、妻・康榮(やすえ)も眠れぬ日々を過ごしながら、必死で家族と会社を支えていた。「うまい梅」と「幻の梅」の成功は、2人の二人三脚があってのことだった。
加工業は苦労の連続。
新製品の開発で苦しむ彼を見て私も眠れぬ日々を過ごしていたのです。(岡畑康榮)
結婚した時には既に加工業も手がけていたのですが、加工業は分からないことばかりで苦労の連続でした。設備投資もしなくてはなりませんし、原料も調達しなければなりません。当然まとまったお金が必要になってきます。貯金は底をついていたので、地元の農協から借りられるだけ借りて何とか操業していました。
厳しい日々の中で支えとなったのは彼の夢でした。彼はよく言っていました。「今後梅の収穫量はますます増えていくだろう。その時に栽培農家が換金に困らないようにしてあげたい。そして紀州の梅干を全国に広めることで地場産業の発展にも貢献したい」と。
昭和49年頃に、爆発的に「かつお梅」が売れ出したこともあり、岡畑農園でもこれまでとは違う商品の開発に取り組むことになります。当時の主流だった塩辛く酸っぱい梅干ではなく低塩の梅干作りをスタートさせたのです。
現在の主力商品である「うまい梅」ができるまでに、夫はどれほど眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。カビの問題はもちろん、品質を安定させるためにどれほど苦労したことか。私にははかり知れぬ苦しみがあったことでしょう。
しかし私も一人悩んでいました。経理一切を任され簡単な帳簿だけをつけている間はよかったのですが、銀行と取引ができるようになると試算表や資金繰表の提示を求められるようになってきたのです。経理や簿記の専門知識もなく商売には全くの素人であった私の手に負える問題ではありませんでした。税理士さんを雇う余裕もなく四人の子ども達の子育てにも追われる日々の中で、私自身も眠れぬ夜を過ごしていたのです。
そんなある日、新聞の折込チラシがきっかけで簿記の通信教育を始めることにしました。仕事と子育ての合間の少ない時間をやりくりしながら必死で勉強しました。地元の商店で経理をしていた妹も時々教えに来てくれ、3年という月日がかかりましたが何とか通信教育の全過程を終了。こうして岡畑農園の財務会計の基礎を作ることができたのです。
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第六章:こだわりを形に ~体と環境に優しい梅干作りを実践~
第六章:こだわりを形に ~体と環境に優しい梅干作りを実戦~
こだわり① 本当の紀州梅の美味しさを届けたい
梅干は昔から日本人の生活と健康に欠かせない食べ物として重宝されてきた。その健康食品としての梅干を作るにあたり精一には決して譲れないものがあった。
「同業他社が合成保存料や化学調味料などをどんどん使うようになる中で、私はどうしてもその類のものを使いたくなかった。食べてくれる人には、本当の紀州梅の美味しさを味わってもらいたいのです」
通常、塩分が20%以上ある原料梅干から塩分を除く方法には、梅干を一定時間「水」に漬ける方法が取られる。しかしこの方法では、梅干が水っぽくなり、さらに塩分と一緒に梅の旨味や大切な成分が溶け出してしまう。そんな抜け殻のような梅に化学調味料や酸味を添加して梅干風の味に整える。それはもう、梅干の形をした全く別の食べ物である、と精一は感じていた。
加えて、保存性を高めるために一般的に使われる食品添加物「ビタミンB1(V.B1)」の存在だ。この添加物は、チアミンラウリル硫酸塩やチアミン塩酸塩などのことであり、梅干をはじめとした漬け物やパンやうどんなど、様々な食品に使われている。しかし、独特の臭みや風味があるため、使用すると精一が求める梅本来の美味しさとはかけ離れてしまうのだ。
精一は、これらの問題を解決するため、調味液の原料にはできるだけ自然植物由来のものを厳選し、美味しさと保存期間の最適なバランスを追究した。そして脱塩方法は、海水を淡水化する「電気透析装置」を用いて、原料梅干を調味液に漬けながら脱塩する独自の方法に辿り着いたのである。
こうして誕生した岡畑農園の梅干は、完熟した紀州梅本来の美味しさを保ち、調味梅の一般的な賞味期限の3ヶ月を優に上回る1年間の賞味期限を実現している。
こだわり② 豊かな自然に囲まれたこの土地を守りたい
岡畑農園の梅干づくりは、紀州・上芳養(かみはや)の豊かな自然に支えられている。この自然を大切にしながら梅干を作る。それがこの地で天職を与えられたものの責任でもあると、精一は、人にも環境にも優しい持続可能な梅干づくりに積極的に取り組んだ。
調味液を再利用する独自製法に始まり、ゴミゼロの推進、365日24時間体制で排水を管理、周辺河川の護岸整備も進めた。
その結果、「工場排水」「使用済み調味液」「剪定木」など、工場からの廃棄物を限りなくゼロに近づけることに成功し、排水している川にはホタルが飛ぶようになったのである。
岡畑農園は、これからもゴミの完全ゼロ化(ゼロエミッション)に向けて努力を続けていく。
「自分が食べて美味しいと思う、安全で安心なものしか作らない」
彼のこの信念が次代を担う人たちに受け継がれることを願っています。(岡畑康栄)
私は子育てに注ぐべき情熱のほとんどを、仕事に注いで来たと言っても過言ではありません。夫の夢を実現させるために子どもたちにも随分助けてもらいました。本当に心から感謝しています。
「自分が食べておいしいと思うもの。しかも、安全で安心できる商品をお客様にお届けすること」
創業当時から変わらない夫の信念を、「うまい梅」「幻の梅」とともに、次代を担う人達が永々と受け継いでくれることを心から願っています。
夢に向かって真摯に歩み続け、一代で岡畑農園を築いた創業者、岡畑精一は、「お客さまからの『美味しかった』の声が何よりの励みになる」と言う。
その、食べる人のことを第一に考え、本物の梅干作りにこだわり続けた精一の不屈の精神は、若い世代にしっかり受け継がれ、今も岡畑農園に生き続けている。
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