お歳暮1130まで

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第一章:少年時代 ~恩師との出会い~

第一章:少年時代 ~恩師との出会い~

岡畑精一は昭和17年、紀州田辺の上芳養(かみはや)に農家の長男として生まれた。将来は漠然と農業を継がなければならないだろうと考えていたが、その時は意外にも早くやって来た。中学2年生になった時、父が病気のため急逝したのである。

子どもの頃から責任感が人一倍強かった精一は、農家の長男として一家を支えていくことを決意。「これからは長男として姉弟を守っていかないといけない。でもとりあえず、高校だけは行かしてもらおう」と考え、地元高校の農業科に進学したのだった。

当時は、今のような農機具もなく、農業も牛の力を借りていたので牛の世話も必要になってくる。毎日朝から牛の餌用に草を刈り、牛の世話をしてから学校へ。学校では必死になって勉強し、授業が終わればすぐに家に帰り畑作業に没頭する日々。

遊ぶ暇など全くない必死な毎日の中で、精一はある一人の教師と出会う。竹中勝太郎(たけなか かつたろう)。今や梅の有名ブランド「南高梅(なんこううめ)」の名付け親としても知られる人物である。精一は「現在の岡畑農園の梅作りは竹中先生との出会いから始まったと言っても過言ではない」と竹中を信頼してやまなかった。その信頼感はこんなエピソードからも伺える。

ある日、精一は竹中に教えられた通りに梅の木の剪定をしていた。それを見た近所の農家の人たちは口々に「そんなに枝を切っては梅の実がならない」と言った。木の剪定は良い実をつけるかどうかを左右する大事な作業である。親切心から出た忠告であると分かってはいたが、精一は信頼する竹中の教えを信じ、教えられた通りに剪定を続けた。

その結果、収穫時期には梅の実がならないどころか、大きくふっくらとした梅の実がたくさんなったのである。竹中を信じ、人に何と言われても自分の信念を貫いた精一。わずか14歳の若さで一家の大黒柱として家族を支えなければならなかったこの強い精神力こそが、この後の岡畑農園の発展を支える礎となるのであった。



『南高梅』の名付け親

恩師 竹中勝太郎 先生


昭和25年から5年にわたり、和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)では、栽培する梅を優良品種に統一して市場の安定を図るため、品種の選抜調査が行われた。

園芸科の教師として教鞭をとりながら、地質風土に最も適合した梅の研究を続けていた竹中先生を中心に、南部高校の生徒達も地道な調査に協力し、最優良品種として「高田梅」を選定したのだった。

昭和40年の種苗名称登録の際、竹中先生は「南部高校(通称:なんこう)」と「高田梅」の名を取り、この梅を新たに『南高』と命名。今現在、国内第1位の栽培面積を誇り、大粒で柔らかな果肉で梅干のトップブランドとして全国に知られる存在となったのである。