心づくし、梅づくし。本紀州手造り高級梅干

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第五章:成功の裏側で ~妻 岡畑康榮の眠れぬ日々~

第五章:成功の裏側で ~妻 岡畑康榮の眠れぬ日々~

精一が低塩梅干の開発のために不眠不休の日々を続けていた陰で、妻・康榮(やすえ)も眠れぬ日々を過ごしながら、必死で家族と会社を支えていた。「うまい梅」と「幻の梅」の成功は、2人の二人三脚があってのことだった。

昭和50年に誕生した「かつお風味 味小町」。
酸味とうま味がたまらないロングセラー商品。

加工業は苦労の連続。
新製品の開発で苦しむ彼を見て私も眠れぬ日々を過ごしていたのです。(岡畑康榮)

結婚した時には既に加工業も手がけていたのですが、加工業は分からないことばかりで苦労の連続でした。設備投資もしなくてはなりませんし、原料も調達しなければなりません。当然まとまったお金が必要になってきます。貯金は底をついていたので、地元の農協から借りられるだけ借りて何とか操業していました。

厳しい日々の中で支えとなったのは彼の夢でした。彼はよく言っていました。「今後梅の収穫量はますます増えていくだろう。その時に栽培農家が換金に困らないようにしてあげたい。そして紀州の梅干を全国に広めることで地場産業の発展にも貢献したい」と。

昭和49年頃に、爆発的に「かつお梅」が売れ出したこともあり、岡畑農園でもこれまでとは違う商品の開発に取り組むことになります。当時の主流だった塩辛く酸っぱい梅干ではなく低塩の梅干作りをスタートさせたのです。

現在の主力商品である「うまい梅」ができるまでに、夫はどれほど眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。カビの問題はもちろん、品質を安定させるためにどれほど苦労したことか。私にははかり知れぬ苦しみがあったことでしょう。

しかし私も一人悩んでいました。経理一切を任され簡単な帳簿だけをつけている間はよかったのですが、銀行と取引ができるようになると試算表や資金繰表の提示を求められるようになってきたのです。経理や簿記の専門知識もなく商売には全くの素人であった私の手に負える問題ではありませんでした。税理士さんを雇う余裕もなく四人の子ども達の子育てにも追われる日々の中で、私自身も眠れぬ夜を過ごしていたのです。

そんなある日、新聞の折込チラシがきっかけで簿記の通信教育を始めることにしました。仕事と子育ての合間の少ない時間をやりくりしながら必死で勉強しました。地元の商店で経理をしていた妹も時々教えに来てくれ、3年という月日がかかりましたが何とか通信教育の全過程を終了。こうして岡畑農園の財務会計の基礎を作ることができたのです。

昭和53年に誕生した「うまい梅」。
低塩梅干のさきがけとなった自慢の梅干だ。
眠れぬ日々を乗り越えた精一と康榮。
その努力が岡畑農園の基礎を築いた。